粗忽長屋(そこつながや)
●朝から夫婦喧嘩しやがって。おらぁ独り者だ。だって、このかかぁ出てけって言ったろ。
赤犬が入って来たから、このあかぁ出てけって言ったんだ。そんな犬はぶっ殺して熊の胆を取るんだ。犬から熊の胆が取れるか、ありゃあ鹿だ。こんな調子のそそっかしい奴ばかりが集まっている長屋があった。
長屋の住人が観音様にお参りすると、浅草雷門のところで人だかりができている。股ぐらをくぐって前に出ると、行き倒れだ。筵を捲ってみると今朝会ったばかりの弟分だった。
慌て者だから、自分が倒れていることに気が付かねぇんだ、本人を連れて来るから待ってくれと現場の役人に告げて長屋に戻った。
本人に行き倒れの事情を話すと俺は生きていると反論するが、馬鹿だな死んでるのに気がつかねぇのか、とにかく一緒に来い。
現場に行って、ここで倒れてるのが俺なのかい。死んでるのが俺だってのは分かったが、それを抱いているのはいったい誰だろう。
(http://mengjian.blog104.fc2.com/blog-entry-80.html より転載)
つづいて花緑。寄席で花緑を観るのって、すごく久しぶりだ。「そそっかしい人の出てくる噺が大好きで」と小噺を披露。向こうから来る人の名前がどうしても思い出せない。「いやー、こんにちは。どこかでお目にかかりましたかな」「お前の親父だ!」、という有名だが、志ん朝が演ってもあまり面白くない小噺で、当然、ほとんど受けない。「ちょっと不安になってきました」と言いながら、「粗忽長屋」に。
ところが驚いたことに、これが結構良かったのだ。浅草の観音様の近くに人だかりがする。慌て者が近づいてみると行き倒れ。見れば、長屋の熊公ではないか。「熊の奴、朝はあんなにピンピンしてたのに……」「朝ぁ? じゃあ人違いだよ、この人はゆンべからここに倒れてんだよ」「いーや、熊公だ。なんなら当人をここへ連れて来るよ」というので、慌て者が長屋から熊公を連れてきて……、というお馴染みのストーリーだが、この噺、慌て者の兄貴分の“活躍”が際立って、のんびりした粗忽者、熊公は兄貴分に引きずられるだけの存在に描かれがちである。しかし、今日の花緑「粗忽長屋」は、熊公に力点が置かれていた。兄貴分がパアパア言っているだけの前半は平凡といえば平凡。熊公が登場する後半、俄然、精彩を増す。考えてみると、死体を見て生きた本人を連れてこようという兄貴分も相当クレイジーだが、連れて来られて死体を自分だと思い込む男はその上をいくはずだ。花緑はそこのところをうまく掴まえていた。後半は、明らかに熊公が時空の歪みを取り返しのつかないほうに駆動していく。「粗忽長屋」ってこんな風に演れば良かったんだ、と正直、目から鱗である。
(http://homepage2.nifty.com/Curious-G/starthp/subpage761.htmlより転載)