鰍沢(かじかざわ)
●身延山への参詣に出掛け、大雪で迷った男が、一軒の家を見つけて一夜の宿を求めた。中では美女が迎えてくれたが、どこかで見た顔だと話を進めると、吉原の花魁と客だった。
一宿のお礼に二両を渡すと、女が恐縮して玉子酒を振舞い、飲んだ男は酔って先に寝た。
熊の膏薬売りの夫が帰って来て、飲み残しの玉子酒を飲むと、旅人を眠らせて金を奪う策略で、毒を入れたと告げる。これを聞いた旅人は逃げ出そうとするが毒が回って体が利かない。神社でもらった毒消しの護符を口に突っ込み雪で押し込むと毒気が消えた。
雪の山中に逃げ出すが、女が鉄砲を持って追いかけてくる。断崖絶壁で、突然の雪崩に足元を掬われて鰍沢の筏の上に落ちた。その拍子に蔦が切れて筏が流れ出した。急流で岩にぶつかりバラバラに壊れた材木一本にしがみついて「南無妙法蓮華教」と御題目を唱える。女が鉄砲を撃つ。かすめて岩に当たった。
ああ、御題目(材木)のお蔭で助かった。
(http://mengjian.blog104.fc2.com/blog-entry-113.html より転載)
落語研究会のDVDは、やはり「鰍沢」から視聴しました。
圓生師匠に間に合ったとはいえ、そんなに頻繁に聴いた訳ではないし、本物に会っているといっても映像はほとんど視ていませんから、本当に貴重な映像です。
「鰍沢」は、1970年のモノクロ映像で、この時圓生師匠はちょうど70歳です。が、とても古稀を迎えようという人とは思えないほどの若々しさ。声にも艶があります。ちょっとした仕草や、扇子と手拭いの使い方、湯呑の白湯を飲む姿・・、「へぇ~、こんなふうに演っていたんだ。」というものばかり・・・。
驚いたのは、後半から最後の場面に至る、激しい仕草の演じ方です。熊の膏薬売りのお熊の亭主が毒を飲んで苦しむところ、鉄砲を持ったお熊に追われる場面等々・・・。
今、こういう雰囲気を持った噺家さんはいませんね。
(http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2009/09/post-ca57.htmlより転載)
五代目・古今亭 志ん生の『鰍沢』をどうにかして聴いてみたいものだと思っていたら、運良く音源の提供を受けることが出来た。・・・六代目・三遊亭 圓生の『鰍沢』と比べると、随分味が異なる。同じ噺でも、演者によって、こうも違うものかと今更ながらビックリした。
以下『鰍沢』という噺に限定して、二人の大真打ちに対する小生の感想を率直に述べてみたい。あくまでも個人的な独断と偏見です。
最初にズバリ結論を申し上げると、圓生の『鰍沢』が視覚に訴えようとしているのに対して、志ん生のそれはまさに聴覚に訴えようとしている。
もちろん、前者が聴覚を無視し、後者が視覚を無視しているという意味ではない。どちらに演出の力点を置いているかという意味に過ぎない。
別の云い方をすると、圓生(の演出)は、劇画的であり、動画的である。映像に訴える演出法を採っている。それに比べ、志ん生は明らかに「喋り」(話)に力点を置いている。
(http://blog.goo.ne.jp/osan3/e/a6a829388a7085ac165801da88d32b88より転載)