愛宕山(あたごやま)
●東京から来た旦那の一行が京の愛宕山に登る。幇間の一八が大口を叩くがさっぱり足が進まない。どうにかこうにか旦那に追いついたら、空中に浮かんだ大きな輪に向かって旦那が何かを投げている。土器を投げて輪を通す遊びだ。旦那が小判を三十枚取り出して投げると言い出した。一八が止めるが、これが楽しみで稼いで来た金だと、惜し気もなくどんどん投げる。投げた金はどうするのかと一八が問うと、拾った人の物だと答える。
一八が拾いに行こうとするが、断崖絶壁で足が竦む。何度か試した背中を下男の重蔵が突き落としたので、一八は谷底へ落ちた。
命拾をした一八は、小判を拾い集めたが上る術がなく、夜には狼が出るという。思案を重ねた一八は、着ていた絹の着物を切裂いて一本の縄を綯い、この縄に小石を縛り付けて投げ、上の枝に絡み付け次々に上って来た。
漸く上って来た一八に「金はどうした」と旦那が問う「あ、置いて来ました」
(http://mengjian.blog104.fc2.com/blog-entry-146.html より転載)
『愛宕山』というと、東京では先代の桂文楽の専売状態で、その後、古今亭志ん朝が手がけ、いまではその弟子筋の人たちを中心に何人もの落語家がやっている。
それはそれでいいのだが、個人的にはこの噺は、上方のものこそ、その魅力が最大限に伝わるものと思う。
多彩な登場人物、いくつもの場面転換、落語ならではのナンセンス、視覚にアピールするアクション、そしてそれらを盛り上げる鳴り物(ハメもの)と、落語(それも上方落語)の魅力がふんだんにつまっている。
さらにいうなら、上方落語の隠しテーマである、「大阪vs京都」なんてのも入っている。
演者は桂米朝。
その米朝は、貧乏時代に『貧乏花見』から元気をもらったと書いている。
こちらもいいかもしれない。
(http://kamigatarakugo-and-art.at.webry.info/201103/article_4.htmlより転載)