代書屋(だいしょや)
●舞台は昭和の前半。「儲かった日も代書屋の同じ顔」という有名な川柳の通り、堅真面目な主人のいる代書屋を労務者風体の男が訪れ「就職するので履歴書を書いて欲しい」と依頼する。ところが男、物凄い無学で「生年月日は?」と聞かれると「確か、無かったんじゃあ!」と答え、「生まれた月と日は?」とくれば「七夕の次の次の次の日」と答える面倒臭さ。「尋常小学校は2年で卒業した」だの、「はじめて商売をしたのは、日本にツベルクリン(飛行船ツェッペリン)てえ空飛ぶ風船がドイツから飛んできた翌年」「今まではよなぎ屋(川の鉄屑拾い)で暮らしていた」とか「昭和8年8月8日に初めて友達と女郎買いをした」と履歴書にかけない事ばかり言い、書き始めた履歴書は「一行抹消」で惨憺たる有り様になってしまう。業を煮やした代書屋は遂に「あとはいい加減、こっちで書くときますから」と履歴書の捏造に取り掛かるが・・・。
(https://www.dplats.jp/kura/asp/itemdetail/rakugo-dl-00257s/より転載)
代書屋、今でいうと行政書士・司法書士になるのでしょうか。当時の代書屋さんは法的な書類ばかりではなく、手紙の代筆までしたように聞いてます。
落語の方では履歴書を書き上げるひと騒動を、面白おかしく演じております。
落語とジャズが似ている、以前ポロっと書いたことがありますが、今回、次回と「代書屋」を違ったタイプの噺家がどう演じているか。拙いながら表現してみようと思います(多少デフォルメしているところがあります)。今回は桂春団治師匠が96年に演じられた高座を元に、次回は桂枝雀師匠88年の高座を元にしています。
春団治師はかちかち定型、枝雀師は何でもありの成り行き任せ、両極端のように感じます。どちらが好みかというのは人それぞれで、あなたの嗜好にお任せするとして「落語はこうでなければならない」といった融通の利かない考えだけは捨てても損はありません。
しっかり骨太の旋律(噺)は、場の変化で様々なアドリブを展開し、プレーヤー(噺家)の個性をより際立たせてゆきます(1998/10/15)。
(http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug131.htmより転載)
私の中では米朝師匠と双璧をなすのが少し年下の桂春団治師匠で、春団治師匠の演目の中で秀逸というか私が最も好んでいる噺は「代書屋」~
江戸落語にこの演目があるのかどうかは知らないが、春団治師匠が演じる「アホなお方」は天下一品で、他者の追随を許さない最高傑作であるが…
私はてっきり春団治師匠が若かりし頃から得意にしている独自の持ちネタであると思っていたのであるが、米朝師匠の追悼番組の中で春団治師匠が「米朝さんは私に代書屋等の噺を教えていただいた師匠のような存在でした」との一文を寄せられていた!
(http://syoshi-matsuoka.info/?eid=295より転載)
<訃報>桂春団治さん85歳=落語家
毎日新聞 2016年1月14日(木)2時30分配信
戦後、滅亡寸前と言われた上方落語界の復興に尽くした四天王の最後の一人で、厳しいまでに磨き上げた芸風で知られる桂春団治(かつら・はるだんじ、本名・河合一=かわい・はじめ)さんが9日、心不全のため亡くなった。85歳だった。親族や直系の弟子らで密葬を営んだ。
1930年、大阪市生まれ。父親は二代目春団治。高校を卒業後、会社に就職するが1年で辞め、47年小春の名でデビュー。50年に二代目福団治、59年に三代目春団治を襲名した。
後に上方落語四天王と称された、三代目桂米朝、六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝(いずれも故人)とほぼ同時期の入門で、衰退していた上方落語界再生の原動力として活躍した。
芸風は地味だが手堅く、上方落語のエッセンスを観客に見せるよう心掛けた。テレビやラジオにはほとんど出演せず落語一筋。粒よりのネタを完璧に演ずることに全力を傾け、「野崎詣(まい)り」「いかけや」「代書」などは至芸と言われた。
若手の育成にも熱心で、福団治さんや故二代目春蝶、小春団治さんらを育てた。78年から83年には三代目の上方落語協会会長を務めた。
81年に胃潰瘍、92年にはC型肝炎と診断されるなど、何度か病気に見舞われながらその度に克服。年齢とともに円熟を重ね、艶のある芸で観客を酔わせた。足のけがで正座できなくなったことなどを理由に、2013年夏以降は高座から遠ざかっていたが、弟子の襲名披露の際などには公に姿を見せることもあった。
75年芸術祭優秀賞、78年上方お笑い大賞、98年には紫綬褒章を受章した。
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160114-00000004-mai-sociより転載)