幾代餅(いくよもち)
●職人の清蔵が錦絵の花魁を見て、一目惚れします。花魁の名は、幾代太夫。清蔵は、恋わずらいになり食事も喉を通らなくなります。心配した親方や女将さんが説得して金を貯めれば幾代太夫も会ってくれるはずだといって1年間清蔵は一生懸命働き13両貯めます。1年後、清蔵は親方に幾代太夫に会いに行くと言いますが親方は約束を忘れていて困った末吉原通の医師に同行を依頼し清蔵は幾代太夫に会うことができますが職人という身分でなく醤油問屋の若旦那として座敷に上がります。翌朝、清蔵は花魁に今度はいつ会ってくれるのと聞かれます。清蔵は1年後の今日だといいます。花魁は、醤油問屋の若旦那がなぜと疑問を抱きます。そして、清蔵は自分の本当の姿をしゃべります。花魁は、清蔵の本当の姿を知り清蔵に50両を持たせます。そして、花魁は1年後清蔵のお店を訪ね、ふたりは一緒になります。ふたりでお店を持ち、幾代餅という餅を販売してこどもが3人できたという花魁幾代太夫のお話でした。
(http://makimaki56.blog.so-net.ne.jp/2011-12-04-1より転載)
さてトリはさん喬師の「幾代餅」。冒頭のさん喬師の言葉、「日本語を学ぶ学生達の真っ直ぐな気持ちを知った」との言葉通り、典型的な古典落語、廊噺であるこの噺をを換骨奪胎しピュアで真っ直ぐなストーリーに甦らせた。
映画で言えば、固定され形式化された情景描写から登場人物の心情をくみ取るのではなく、ダイナミックにクローズアップされた彼らの表情に聴く者が感情移入していくその方法は、先日聴いた「芝濱」よりも自然で現実味があったからだと思う。
それはギャグも控えめで、古典落語としての廊噺の色合いも薄かったせいかもしれない。つまり清蔵の恋患いに驚く親方夫婦のやり取りや清蔵に吉原の礼儀を教える竹庵先生との問答は大胆にカットされていた。が、親方が貯めた金を渡さないと聞いた時の清蔵の怒りの場面や、初めてついた清蔵の嘘の告白に心打たれ「女房しておくれ」と手をつく場面に、単純なラブストーリー、純愛物語というよりふたりの純粋で真っ直ぐ気持ちを、この高座では実に巧みに表現していたのではないだろうか。
さん喬 幾代餅
30分たっぷり「幾代餅」をやった。
まくらは、情報過多の時代というハナシ。ただ、真面目に話過ぎて、面白くもなんともない。情報の洪水で、アップアップしたという話かなんかで笑わせればよかったのに。
本題に移ってからは、危なげなく演じた。得意のネタですかあねえ。噺の筋はあらかじめ分かっているのに涙がでた。若者の純な気持ち、周囲の暖かい眼差し、幾代のまごころに感動してしまったのか。最初は騒いでいた客も、しわぶきせずに聞き入っていた。
さん喬のこの噺にまくらはいらない。何にもなしで、本題に入っても十分聞かせる実力がある。
(http://hamidashirakuen.blog36.fc2.com/blog-entry-870.htmlより転載)