妾馬(めかうま)
●横町の美人娘のお鶴が、大名に見初められて、御屋敷に奉公に上がることになった。やがて殿様のお手が着き、世継ぎを産み、お部屋様となった。
殿様の招きで、兄の八五郎がお屋敷に参上することになったが、二百両の支度金は使い果して一文なし。半纏では格好がつかないから、家主の羽織りを借りて出掛けた。
殿様の御前では、重役の田中三太夫の妙な言葉使いが判らず、勘違いして張り倒したり、丁寧ぶった言葉使いに口が回らず本人も何を喋っているのか解らない有り様。
殿様が「無礼講じゃ平易な言葉で話せ」というと、いきなり胡座をかいて、べらんめぇ調の大工言葉で話し始めた。三太夫がはらはらして注意しようとすると「三太夫、控えておれ」と殿様が止める。
この後、酒を飲んで、都々逸まで歌い出した八五郎を殿様が気に入り、出世をするという目出度いお話。
(http://mengjian.blog104.fc2.com/blog-entry-110.htmlより転載)
■柳家さん喬 妾馬
中入り後、黒紋付きの着物で登場。先日の小三治師のドキュメンタリーで師が言っていた「自分を殺すため」の着物だ。噺の出来については文句はない。パーフェクト。そして一番印象的だったのは、終盤の八五郎のお世継ぎを生んだつるに対する台詞。
「おめでとう、でも驕るんじゃない、みんなに可愛がってもらうようにがんばるんだぞ」
それに引き続き八五郎が殿様とお屋敷の人たちに頭を下げる場面は、喬太郎師をこれからもよろしくお願いしますと客席に向かって、まさにさん喬師があいさつしているのと同じように思えた。
鈴本中席の芝居の千秋楽、さん喬師匠は、羽織袴姿で高座に上がり、「妾馬」を熱演しました。
隣の席に座っていた母が、「袴を着けている」と、さすがに気がついたようです。
とりあえず小声で、「殿様(侍)が出る噺を演るのと、楽日のトリだから正装したのと両方のはず。」と答えました。
丁寧な仕立ての噺を演るさん喬師匠らしく、「妾馬」でも、妹のおつるさんが産んだお世継ぎの赤ん坊が登場します。ほのぼのした家族や身内の愛情を表現しているのです。
(http://ranshi2.way-nifty.com/blog/2009/08/post-f6a7.htmlより転載)
妾馬(めかうま)
●横町の美人娘のお鶴が、大名に見初められて、御屋敷に奉公に上がることになった。やがて殿様のお手が着き、世継ぎを産み、お部屋様となった。
殿様の招きで、兄の八五郎がお屋敷に参上することになったが、二百両の支度金は使い果して一文なし。半纏では格好がつかないから、家主の羽織りを借りて出掛けた。
殿様の御前では、重役の田中三太夫の妙な言葉使いが判らず、勘違いして張り倒したり、丁寧ぶった言葉使いに口が回らず本人も何を喋っているのか解らない有り様。
殿様が「無礼講じゃ平易な言葉で話せ」というと、いきなり胡座をかいて、べらんめぇ調の大工言葉で話し始めた。三太夫がはらはらして注意しようとすると「三太夫、控えておれ」と殿様が止める。
この後、酒を飲んで、都々逸まで歌い出した八五郎を殿様が気に入り、出世をするという目出度いお話。
(http://mengjian.blog104.fc2.com/blog-entry-110.htmlより転載)
古今亭菊之丞「妾馬」
会場入りすると菊之丞さんの高座中だったのでロビーのモニターで聞きました。時間的には仲入り中かな、と思うくらいだったのですが、噺の方は八五郎が屋敷に入るところ。けっこう序盤です。酔っぱらった八五郎が「こんなに酔っ払って会見に出たらマズい」なんてトコで爆笑。泣きの部分もキッチリと聞かせてくれて、なかなか良かったです。
(http://www.rakupachi.net/blog/?p=451より転載)
◇古今亭菊之丞「妾馬」
決して悪い出来ではないのだが、10日ほど前に日本橋劇場できいたさん喬のすばらしい「妾馬」の記憶があまりにも鮮明。八五郎の人の良さ、殿さまの悠揚迫らぬ風情を演じきるには、かなりの年季が必要なようです。
(http://yanakatokubei.blog119.fc2.com/?mode=m&no=58より転載)
トリの菊之丞「妾馬」、古今亭流の演出をベースにして、酔った後の八五郎のセリフでほろりとさせてから陽気に都々逸を唄いあげ、目出度く打ち上げた。
新年の寄席は二之席までが正月、ここでトリを取るというのは特別の意義がある。鈴本でいえば圓歌、正蔵、小三冶、喬太郎とこの菊之丞の5人となるわけで、大看板の仲間入りをしつつあるということだ。これも又目出度い。
(http://home-9.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/2012113-b9cc.htmlより転載)
ブログ 引っ越しました!
妾馬(めかうま)
●横町の美人娘のお鶴が、大名に見初められて、御屋敷に奉公に上がることになった。やがて殿様のお手が着き、世継ぎを産み、お部屋様となった。
殿様の招きで、兄の八五郎がお屋敷に参上することになったが、二百両の支度金は使い果して一文なし。半纏では格好がつかないから、家主の羽織りを借りて出掛けた。
殿様の御前では、重役の田中三太夫の妙な言葉使いが判らず、勘違いして張り倒したり、丁寧ぶった言葉使いに口が回らず本人も何を喋っているのか解らない有り様。
殿様が「無礼講じゃ平易な言葉で話せ」というと、いきなり胡座をかいて、べらんめぇ調の大工言葉で話し始めた。三太夫がはらはらして注意しようとすると「三太夫、控えておれ」と殿様が止める。
この後、酒を飲んで、都々逸まで歌い出した八五郎を殿様が気に入り、出世をするという目出度いお話。
(http://mengjian.blog104.fc2.com/blog-entry-110.htmlより転載)
昭和の名人として、文楽、志ん生と並んで必ず名の出る圓生。志ん生師匠と戦争中に中国へ行き、終戦後、命からがら日本に逃げ帰って来た。それから二人とも爆発的に落語会で認められるようになる。その分岐点と言っていいのが、この「妾馬」である。
それまでの圓生師匠は、噺はうまいがパッとしなかった。キザな所もあったようだ。桂文楽師匠の言葉に「あの人(圓生)の噺は、これといってまずいのもないが、うまいのもない」というのがある。この言葉に尽きる。
ところが帰国後、この「妾馬」を演ると、お客さんが納得してくれた。そこで「自分には滑稽噺より人情をおりまぜた噺の方があってるんじゃないかな」と気付く。それからは自信もついて、どんどん仕事も増え、人気を不動のものにした。
(http://homepage3.nifty.com/katuraheiji/rakugo/hanasiana/ana026.htmlより転載)
圓生は、ハイティーンの頃、まだ二ツ目の小圓蔵時代に、師匠の四代目 橘家圓蔵(1864~1922。俗に品川の圓蔵)一座の地方興行で、群馬県の高崎の高座で、師匠の圓蔵から、「妾馬」をやるから良く聴いておくようにと云われたそうです。圓蔵の妾馬はもっと短くて、八五郎と門番の対話の部分で終えたそうです。つまり殿様にさえ会っていないから、侍に召抱えられていないのに、演題は「妾馬」だったようです。
圓生は、大正9(1920)年、二十歳の時に、五代目 橘家圓好を襲名して真打ちになりますが、その頃から妾馬を持ち根多にしたようです。圓生が22歳の時に、師匠の圓蔵が亡くなってしまったので、その後は、初代 三遊亭圓右(1860~1924)のやり方を参考にして、殿様に面会して都々逸を歌うところまで伸ばしたようです。
(http://blogs.yahoo.co.jp/yacup/62221654.htmlより転載)