住吉駕籠(すみよしかご)
●鈴が森で客待ちをしている駕籠(かご) 屋の二人組。
ところが、前棒がおめでたい野郎で、相棒がはばかりに行っている間に、茶店のおやじをつかまえて「だんな、へい駕籠」と遣る始末です。
次に来たのが身分のありそうな侍で、「ああ駕籠屋、お駕籠が二丁じゃ」「へい、ありがとう存じます」
「前の駕籠がお姫さま、後ろがお乳母殿、両掛けが二丁、お供まわりが四、五人付き添って」
と言うから、てっきり上客と思い、喜び勇んで仲間を呼びに行きかけたら
「そのような駕籠が通らなかったか」・・・
その次は酔っぱらい。女と茶屋に上がり、銚子十五本空にして、肴の残りを竹の皮に包んで持ってきたことや、女房のノロケをえんえんと繰り返し、おまけにいちいち包みを懐から出して開いてみせるので、駕籠屋は閉口。
今度は金を持っていそうなだんなが呼び止めるので、二人は一安心。酒手もなにもひっくるめて二分で折り合いがつき、天保銭一枚別にくれて、出発前にこれで一杯やってこいといってくれたので、駕籠屋が大喜びで姿を消したすきに、なんともう一人が現れて、一丁の駕籠に二人が乗り込みます。
帰ってきた駕籠屋、やせただんなと見えたのにいやに重く、なかなか棒が持ち上がらないので変だと思っていると、中からヒソヒソ話し声が聞こえるから、簾をめくるとやっぱり二人。
文句を言うと、江戸に着いたらなんとでもしてやるからと頼むので、しかたなくまたヨロヨロと担ぎ出します。ところが、駕籠の中の二人、相撲の話になり、ドタンバタンと取っ組み合いを始めたからたまらない。たちまち底が抜け、駕籠がすっと軽くなります。下りてくれと言っても、修繕代は出すからこのままやれ、オレたちも中で歩くからと、とうとう世にも不思議な珍道中が出現します。これを見ていた子供が、
「おとっつぁん、駕籠は足何本ある?」
「おかしなことォ聞くな。前と後で足は四本に決まってる」
「でも、あの駕籠は足が八本あるよ」
「うーん、あれが本当のクモ駕籠だ」
(http://blog.livedoor.jp/isogaihajime/tag/%E8%9C%98%E8%9B%9B%E9%A7%95%E7%AF%ADより転載)
【桂吉朝追悼】
桂 吉坊 「厄払い」
桂 しん吉 「池田の猪買い」
桂 あさ吉 「抜け雀」
―― 中入り ――
吉朝一門 《口上》
茂山あきら、小佐田定雄、吉弥、よね吉 《トーク》
桂 吉朝 「住吉駕籠」
毎年この時期に吉朝さんが独演会をしていたピッコロシアターにて、追悼の意を込めての一門会。満席です。
…最後に吉朝の「住吉駕籠」のビデオ上映。(『平成紅梅亭』より) やっぱり上手い。セリフのつなぎのタイミングと間、いちびり具合、それらのさじ加減がええ感じで。
(http://wasavy.way-nifty.com/blog/2006/12/post_3287.htmlより転載)
『住吉駕籠』は、上方落語の中でも、個人的に好きな噺ベスト5に入る爆笑ネタ。
この噺は、はっきりしたストーリーがあるわけではなく、住吉街道の駕籠かき二人組と、他の登場人物との掛け合いだけで、笑いを取らなければならない。演者に相当の力がないとダレてしまう難しい噺だと思う。
その点、このCDの吉朝の高座は安心して笑える名演。酔っ払いが同じ話を何度も繰り返すあたりの可笑しさにも、吉朝の「芸」の力を存分に味わえる。
後半、堂島の米相場師が登場してから噺が一気に加速し、笑いも加速度的に増していくあたりは、聴いていて至福の一瞬。
(Amazonカスタマーレビューより転載)
蜘蛛駕籠(くもかご)
●鈴が森で客待ちをしている駕籠(かご) 屋の二人組。
ところが、前棒がおめでたい野郎で、相棒がはばかりに行っている間に、茶店のおやじをつかまえて「だんな、へい駕籠」と遣る始末です。
次に来たのが身分のありそうな侍で、「ああ駕籠屋、お駕籠が二丁じゃ」「へい、ありがとう存じます」
「前の駕籠がお姫さま、後ろがお乳母殿、両掛けが二丁、お供まわりが四、五人付き添って」
と言うから、てっきり上客と思い、喜び勇んで仲間を呼びに行きかけたら
「そのような駕籠が通らなかったか」・・・
その次は酔っぱらい。女と茶屋に上がり、銚子十五本空にして、肴の残りを竹の皮に包んで持ってきたことや、女房のノロケをえんえんと繰り返し、おまけにいちいち包みを懐から出して開いてみせるので、駕籠屋は閉口。
今度は金を持っていそうなだんなが呼び止めるので、二人は一安心。酒手もなにもひっくるめて二分で折り合いがつき、天保銭一枚別にくれて、出発前にこれで一杯やってこいといってくれたので、駕籠屋が大喜びで姿を消したすきに、なんともう一人が現れて、一丁の駕籠に二人が乗り込みます。
帰ってきた駕籠屋、やせただんなと見えたのにいやに重く、なかなか棒が持ち上がらないので変だと思っていると、中からヒソヒソ話し声が聞こえるから、簾をめくるとやっぱり二人。
文句を言うと、江戸に着いたらなんとでもしてやるからと頼むので、しかたなくまたヨロヨロと担ぎ出します。ところが、駕籠の中の二人、相撲の話になり、ドタンバタンと取っ組み合いを始めたからたまらない。たちまち底が抜け、駕籠がすっと軽くなります。下りてくれと言っても、修繕代は出すからこのままやれ、オレたちも中で歩くからと、とうとう世にも不思議な珍道中が出現します。これを見ていた子供が、
「おとっつぁん、駕籠は足何本ある?」
「おかしなことォ聞くな。前と後で足は四本に決まってる」
「でも、あの駕籠は足が八本あるよ」
「うーん、あれが本当のクモ駕籠だ」
(http://blog.livedoor.jp/isogaihajime/tag/%E8%9C%98%E8%9B%9B%E9%A7%95%E7%AF%ADより転載)
あれは、震災のちょっと前、3月6日(日)に川崎市の麻生市民会館で行われた一門会。談笑「片棒・改」、志らく「長短」などの後に談志登場。最初「長屋の花見」をやった。季節柄なネタ。ああ、声が出ないなあというのが、一番の感想。わかっちゃいたが悲しい。ピンマイク付けているが、ゼェゼェ言ってる息も一緒に拾ってくるので、余計に辛い。声が出ないから抑揚も付かないし、声色もない。ただただネタを繰ってる感じ。でも、わるくはない。不思議なのだけど。でもって、早く終わったからとか短かったから、とかそんなことを言って「もう一席やる」と。もちろんみんな拍手喝采。
んでもって、何やるのかなあと思っていたら「蜘蛛駕籠」だった。時折辛そうにしながらも、淡々と噺が進んでいく。何でこうしてまで喋るのだろうと、思ったりもした。ああ、この人は落語家なんだなと、しみじみ感じた。技巧とか個性とか解釈とか、いろいろなものがそげ落ちた、ただの落語があったような気がする。何となくだけれど。決して、良い高座ではないけれど、彼が落語家であることを嫌でも感じさせられた。みんな一言一句聞き逃すまいというと集中しながらも、一方で声が出なかろうが咳をしようがとにかく温かく見守る、というちょっと独特な客席ができあがっていた。それが結局僕が観た最後の談志の姿だった。世間的にも最後の高座だったようである。
(http://www.legeres.net/?p=398より転載)
最後の高座は今年(2011年)の3月6日に川崎で行われた一門会で、ネタは『蜘蛛駕籠』だったそうです。六郷の渡しで川崎大師の帰りのクマさんが登場するのでこの噺を選んだのでしょうか。
(http://dorobune.at.webry.info/201111/article_10.htmlより転載)