皿屋敷 (さらやしき)
●旅先で皿屋敷のことを聞かれ、知らずに恥をかいた若者。隠居に聞くとまさに町内にあり、今でもお菊の幽霊は、怨念が残り皿を数えに出ていると聞く。見に行こうとすると、9枚まで聞くと死ぬと言われ、6枚で帰れと教えられる。見てみると実にいい女。毎夜毎夜見に行くうちに評判となり、そのうち興行主が現れ、小屋掛けになる。その晩もお菊が現れ6枚まで数えたときに皆が帰ろうとするが、木戸が狭くて出られない。お菊はどんどん数を重ね、とうとう18枚まで数える。お客が怒って「お前は皿が9枚しかなくて手討ちにあったのに、なぜ18枚までかぞえるんだ」(http://www.geikyo.com/beginner/repertoire_detail_sa.html より転載)
1999年頃だと思います。数年前DVDが出ましたがこれはそれよりは少しお若い頃になります。
(ニコニコ動画説明文より転載)
<訃報>桂春団治さん85歳=落語家
毎日新聞 2016年1月14日(木)2時30分配信
戦後、滅亡寸前と言われた上方落語界の復興に尽くした四天王の最後の一人で、厳しいまでに磨き上げた芸風で知られる桂春団治(かつら・はるだんじ、本名・河合一=かわい・はじめ)さんが9日、心不全のため亡くなった。85歳だった。親族や直系の弟子らで密葬を営んだ。
1930年、大阪市生まれ。父親は二代目春団治。高校を卒業後、会社に就職するが1年で辞め、47年小春の名でデビュー。50年に二代目福団治、59年に三代目春団治を襲名した。
後に上方落語四天王と称された、三代目桂米朝、六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝(いずれも故人)とほぼ同時期の入門で、衰退していた上方落語界再生の原動力として活躍した。
芸風は地味だが手堅く、上方落語のエッセンスを観客に見せるよう心掛けた。テレビやラジオにはほとんど出演せず落語一筋。粒よりのネタを完璧に演ずることに全力を傾け、「野崎詣(まい)り」「いかけや」「代書」などは至芸と言われた。
若手の育成にも熱心で、福団治さんや故二代目春蝶、小春団治さんらを育てた。78年から83年には三代目の上方落語協会会長を務めた。
81年に胃潰瘍、92年にはC型肝炎と診断されるなど、何度か病気に見舞われながらその度に克服。年齢とともに円熟を重ね、艶のある芸で観客を酔わせた。足のけがで正座できなくなったことなどを理由に、2013年夏以降は高座から遠ざかっていたが、弟子の襲名披露の際などには公に姿を見せることもあった。
75年芸術祭優秀賞、78年上方お笑い大賞、98年には紫綬褒章を受章した。
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160114-00000004-mai-sociより転載)
ウィキペディア
代書屋(だいしょや)
●舞台は昭和の前半。「儲かった日も代書屋の同じ顔」という有名な川柳の通り、堅真面目な主人のいる代書屋を労務者風体の男が訪れ「就職するので履歴書を書いて欲しい」と依頼する。ところが男、物凄い無学で「生年月日は?」と聞かれると「確か、無かったんじゃあ!」と答え、「生まれた月と日は?」とくれば「七夕の次の次の次の日」と答える面倒臭さ。「尋常小学校は2年で卒業した」だの、「はじめて商売をしたのは、日本にツベルクリン(飛行船ツェッペリン)てえ空飛ぶ風船がドイツから飛んできた翌年」「今まではよなぎ屋(川の鉄屑拾い)で暮らしていた」とか「昭和8年8月8日に初めて友達と女郎買いをした」と履歴書にかけない事ばかり言い、書き始めた履歴書は「一行抹消」で惨憺たる有り様になってしまう。業を煮やした代書屋は遂に「あとはいい加減、こっちで書くときますから」と履歴書の捏造に取り掛かるが・・・。
(https://www.dplats.jp/kura/asp/itemdetail/rakugo-dl-00257s/より転載)
代書屋、今でいうと行政書士・司法書士になるのでしょうか。当時の代書屋さんは法的な書類ばかりではなく、手紙の代筆までしたように聞いてます。
落語の方では履歴書を書き上げるひと騒動を、面白おかしく演じております。
落語とジャズが似ている、以前ポロっと書いたことがありますが、今回、次回と「代書屋」を違ったタイプの噺家がどう演じているか。拙いながら表現してみようと思います(多少デフォルメしているところがあります)。今回は桂春団治師匠が96年に演じられた高座を元に、次回は桂枝雀師匠88年の高座を元にしています。
春団治師はかちかち定型、枝雀師は何でもありの成り行き任せ、両極端のように感じます。どちらが好みかというのは人それぞれで、あなたの嗜好にお任せするとして「落語はこうでなければならない」といった融通の利かない考えだけは捨てても損はありません。
しっかり骨太の旋律(噺)は、場の変化で様々なアドリブを展開し、プレーヤー(噺家)の個性をより際立たせてゆきます(1998/10/15)。
(http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug131.htmより転載)
私の中では米朝師匠と双璧をなすのが少し年下の桂春団治師匠で、春団治師匠の演目の中で秀逸というか私が最も好んでいる噺は「代書屋」~
江戸落語にこの演目があるのかどうかは知らないが、春団治師匠が演じる「アホなお方」は天下一品で、他者の追随を許さない最高傑作であるが…
私はてっきり春団治師匠が若かりし頃から得意にしている独自の持ちネタであると思っていたのであるが、米朝師匠の追悼番組の中で春団治師匠が「米朝さんは私に代書屋等の噺を教えていただいた師匠のような存在でした」との一文を寄せられていた!
(http://syoshi-matsuoka.info/?eid=295より転載)
<訃報>桂春団治さん85歳=落語家
毎日新聞 2016年1月14日(木)2時30分配信
戦後、滅亡寸前と言われた上方落語界の復興に尽くした四天王の最後の一人で、厳しいまでに磨き上げた芸風で知られる桂春団治(かつら・はるだんじ、本名・河合一=かわい・はじめ)さんが9日、心不全のため亡くなった。85歳だった。親族や直系の弟子らで密葬を営んだ。
1930年、大阪市生まれ。父親は二代目春団治。高校を卒業後、会社に就職するが1年で辞め、47年小春の名でデビュー。50年に二代目福団治、59年に三代目春団治を襲名した。
後に上方落語四天王と称された、三代目桂米朝、六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝(いずれも故人)とほぼ同時期の入門で、衰退していた上方落語界再生の原動力として活躍した。
芸風は地味だが手堅く、上方落語のエッセンスを観客に見せるよう心掛けた。テレビやラジオにはほとんど出演せず落語一筋。粒よりのネタを完璧に演ずることに全力を傾け、「野崎詣(まい)り」「いかけや」「代書」などは至芸と言われた。
若手の育成にも熱心で、福団治さんや故二代目春蝶、小春団治さんらを育てた。78年から83年には三代目の上方落語協会会長を務めた。
81年に胃潰瘍、92年にはC型肝炎と診断されるなど、何度か病気に見舞われながらその度に克服。年齢とともに円熟を重ね、艶のある芸で観客を酔わせた。足のけがで正座できなくなったことなどを理由に、2013年夏以降は高座から遠ざかっていたが、弟子の襲名披露の際などには公に姿を見せることもあった。
75年芸術祭優秀賞、78年上方お笑い大賞、98年には紫綬褒章を受章した。
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160114-00000004-mai-sociより転載)
堀の内(ほりのうち)
●あわて者の熊五郎は、自分のそそっかしい癖を信心で治そうというかみさんの提案で「堀の内の御祖師様」へ毎日お参りに行くことにする。しかし、そそっかしい男が行くまでの間にトラブルを引き起こさないわけもなく、自分がどこに行くのかを人に尋ねたり、落ち着こうと他人の家に勝手に上がりくつろいでから道を聞くようなトンチンカンな行動に出る。
そんなトラブルを起こしつつもようやく堀の内の御祖師様に着いて、いよいよお参りをしようとするが、あろうことか財布ごと賽銭箱へダイブ…この件は賽銭の前払いにしてもらうとして済ませ、腹も減ったことということで今朝かかあに持たされた弁当を頂くことにするが、風呂敷と思っていたのはかかあの腰巻き、弁当だと思っていたのはマクラだということに気づき、空腹の苛立ちもあり、急いで帰宅し、かかあに怒鳴りつける…が、何故かかかあは笑っている。その理由を問うと、入るべき家を間違えて別の家のかかあに怒鳴りつけてることを教えられ、急いで謝罪を…自分のかかあにしてしまう。事の成り行きを聞いたかかあは呆れかえる。
気を取り直して息子の金坊と湯に行こうとするが、おんぶしようとする金坊がやけに重い…と思っていたらかかあだったという一ボケをまたかましつつも湯屋について服を脱ごうとするがなぜか店の者が嫌がる。それもそのはず、入るべき湯屋の隣の床屋に入ってしまっていたのだから…
そんなドッタンバッタン劇を繰り返しつつ、湯に入って金坊の背中を流そうとするが見ると入れ墨がされている…と思えば別人のヤクザだった。ここまでミスが重なると熊も息子に八つ当たり気味に苛立ってくるが、今怒ってもしょうがないのでとりあえず背中は流してやることにする。ところがいつまで洗っても金坊の背中が途切れない…と思っていると、気づくと湯屋の羽目板を洗っていたのであった。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E3%81%AE%E5%86%85_(%E8%90%BD%E8%AA%9E)より転載)
立川志らく「堀の内」
粗忽者と言えば、と映画「猿の惑星」のハナシを。
ラストで自分の居た惑星が地球だった!と気づくんだけど、普通に考えたら猿が英語を喋っている時点で、そこに気づくはず、というおっちょこちょいというかバカなハナシしてから噺の方へ。
テンションが高いスレ違いの会話にあたまがクラクラしてしまいます。この主人公って何者なんですかね。
こんなことで生活できるんだろうか、「粗忽の釘」もそうだけれども所帯を持っていて、この有様と言うのが謎すぎるのです。
そして「猿の惑星オチ」という謎のオチが登場しました。(師匠は「たぶんもうやらない」とおっしゃっていましたが)
(http://www.rakupachi.net/blog/diary/tatekwa/shiraku/5146.htmlより転載)
志らくの「堀の内」は、女房もそそっかしい亭主に負けず劣らずのノリのよさで、噺をクレイジー度をレベルアップ。
そしてサゲは、壁の絵を見て「富士山がある。三保の松原がある…こんな日本に誰がした!?」。
私には意味がよくわからなかったのですが、一度、ソデに下がった後、高座に戻って、「落語のサゲにはいろいろなパターンがありますが、初の『猿の惑星オチ』でした。もう二度と演ることはないと思います」と解説。
「猿の惑星」の最後で、自分がいたのが地球であることに気づいて驚く場面を再現したのでした。映画好きの志らくらしい発想ですが、ちょっと無理があったかもしれません。
(http://blog.livedoor.jp/rakumys/archives/13960440.htmlより転載)
ウィキペディア
ブログ 引っ越しました!
落語一日一席 古今亭志ん朝(三代目)