寝床(ねどこ)
●旦那が趣味の義太夫を語る会の準備を始めた。飲める人には酒と肴を、飲めない人にはお茶と羊羹を揃えて、座席の用意をさせる。
さて当日になって、何人集まるか番頭に聞くと、やれ無尽だお産だと誰も来ない。すっかり臍を曲げた旦那は「もう義太夫は語らない、その代わり長屋の住人は店を空けろ、店の者には暇を出すからみんな出て行け」と。
こりゃ困ったと知恵者が音頭を取って、旦那をなだめにかかる。「どうしても旦那さんの語りを聞きたい」とおだてられ、最初は渋っていた旦那が機嫌を直して会が始まった。
しばらくしたら客は次々と寝てしまった。これに気が付いた旦那は怒り出したが、小僧の定吉が一人だけ泣いている。
「おお、お前さんは義太夫が分かるんだね、どこが悲しかった、馬方三吉子別れかね」
「そんなとこじゃねぇ、あそこだ」「あそこは、私が義太夫を語った床じゃないか」
「わたくしの、あそこが寝床でござんす」
(http://mengjian.blog104.fc2.com/blog-entry-52.html より転載)
この噺は、多くの落語の中でもベスト10に入る「古典」なんでしょう。私の知る限り、志ん生、文楽、圓生、小さんの先達がやり、志ん朝、小三治もやっております。
全部を聞き比べておりますが、1992年8月12日の談志家元のこの作品のころは、大概の大所が演じていたわけでしょう。もちろん、家元はもっと昔からやってましたが、私のライブラリーからしても、何種類もの「寝床」があるわけで、どう始末をつけるかは興味があった。
家元は、もうこの噺は、誰でも知っていると言う前提で、省略できるところは省略して、演じている。問題は、最もはちゃめちゃな「志ん生版」で終わるか(志ん朝はここを入れた上で、さらに文楽版につなげる)、正統派の文楽版、さらに精緻な圓生版、省略はするものの全てを抑えた小さん版・・・
結局、家元は、登場人物を増やして、観客がなかなか来ないことを強調した上で、過去の先人たちの噺をつなげていく。「ここまでが志ん生、じゃ、文楽に行きましょうか」・・・昔ながらの評価では、こうした演じている最中の作品の解説はどうかと思うのですが、見事に先人たちの演出を無理なくつなげて、最後まで引っ張っていく。
見事。
ただ、おまけに「円蔵」の新作もどきまで加えたのは失敗と思う。
(http://blogs.yahoo.co.jp/cavan_club1954/54614940.htmlより転載 誤字訂正済)