井戸の茶碗(いどのちゃわん)
●正直者の屑屋の清兵衛が浪人、千代田卜斎から預かった仏像を、高木佐久左衛門が買い取った。煤けているのでぬるま湯で磨いたところ、台座の紙が破れて中から五十両の小判が出て来た。仏像は買ったが中の小判は買った覚えが無いから返して来いと言われて屑屋が卜斎宅に行くと、一旦売ったものを受け取る分けにはいかないと断られる。家主の口利きで屑屋が十両取って、双方二十両ずつ分けることで話が着いたが、卜斎はただ貰う訳にはいかないので形だけでもと、茶碗を贈った。
この美談が細川候の耳に入り、高木が磨いた茶碗をもって登城すると、井戸の茶碗という名器で、細川の殿様が三百両で買い取った。
高木は半分の百五十両を卜斎に返すように、屑屋に託したが卜斎は娘を娶ってくれるなら支度金として受け取ると条件をだした。屑屋が、今は長屋で燻っているが、こちらで磨けばいい娘になりますよと伝えると、いや、磨くのはよそう、また小判が出てはいけない。
(http://mengjian.blog104.fc2.com/blog-entry-135.html より転載)
今夜見たさん喬師匠の『井戸の茶碗』は本当に素晴らしく、「最高」という二文字以外の表現は当てはまりません。「最高」とは、「最も高い」という意味です。
これをライヴで見れたということは、2011年、もうこれ以上の落語を見ることはないのだから、今年はもう落語を見に行く必要はないのかな?――と思うほど、最高に笑え、最高に面白く、最高に感激した『井戸の茶碗』でした。
終盤、清兵衛さんが「孫の代まで自慢できます」と言った時には、私も自然と涙がポロリ、こぼれてしまいました。
さん喬師匠の高座を今までほとんど拝見したことはないですが、今夜、確実に「芸の神様」が降りていたと感じます。
(http://mitsuyoshiwatanabe.seesaa.net/article/215229559.htmlより転載)
先日、「日本の話芸」で柳家さん喬の『井戸の茶碗』が放映されていた。
『井戸の茶碗』は大好きな噺。落語にあまり興味のない人は「なんで話の筋を知っているものを何度も見るの?」と言うが、オリジナルのないカバー曲を聴いていると思えばいいと思う。あるいは、クラシックでいろいろな指揮者・楽団が演奏するのを聴く、というのにも似ている。そうすると、筋を無視するわけではないが、演出とかその噺家の個性みたいなものを段々と感じられるようになってくると思う。
さて。さん喬の噺だが、残念ながら百点満点というわけにはいかなかった。
人情咄としては見事に演じているのだと思うのだが、「うぅ、なんだっけ?」というようなトチリが数回あって、物語に完全に没頭することができなかった。
(http://todotaro.hatenablog.com/entry/20120201/1328054674より転載)