妾馬(めかうま)
●横町の美人娘のお鶴が、大名に見初められて、御屋敷に奉公に上がることになった。やがて殿様のお手が着き、世継ぎを産み、お部屋様となった。
殿様の招きで、兄の八五郎がお屋敷に参上することになったが、二百両の支度金は使い果して一文なし。半纏では格好がつかないから、家主の羽織りを借りて出掛けた。
殿様の御前では、重役の田中三太夫の妙な言葉使いが判らず、勘違いして張り倒したり、丁寧ぶった言葉使いに口が回らず本人も何を喋っているのか解らない有り様。
殿様が「無礼講じゃ平易な言葉で話せ」というと、いきなり胡座をかいて、べらんめぇ調の大工言葉で話し始めた。三太夫がはらはらして注意しようとすると「三太夫、控えておれ」と殿様が止める。
この後、酒を飲んで、都々逸まで歌い出した八五郎を殿様が気に入り、出世をするという目出度いお話。
(http://mengjian.blog104.fc2.com/blog-entry-110.htmlより転載)
昭和の名人として、文楽、志ん生と並んで必ず名の出る圓生。志ん生師匠と戦争中に中国へ行き、終戦後、命からがら日本に逃げ帰って来た。それから二人とも爆発的に落語会で認められるようになる。その分岐点と言っていいのが、この「妾馬」である。
それまでの圓生師匠は、噺はうまいがパッとしなかった。キザな所もあったようだ。桂文楽師匠の言葉に「あの人(圓生)の噺は、これといってまずいのもないが、うまいのもない」というのがある。この言葉に尽きる。
ところが帰国後、この「妾馬」を演ると、お客さんが納得してくれた。そこで「自分には滑稽噺より人情をおりまぜた噺の方があってるんじゃないかな」と気付く。それからは自信もついて、どんどん仕事も増え、人気を不動のものにした。
(http://homepage3.nifty.com/katuraheiji/rakugo/hanasiana/ana026.htmlより転載)
圓生は、ハイティーンの頃、まだ二ツ目の小圓蔵時代に、師匠の四代目 橘家圓蔵(1864~1922。俗に品川の圓蔵)一座の地方興行で、群馬県の高崎の高座で、師匠の圓蔵から、「妾馬」をやるから良く聴いておくようにと云われたそうです。圓蔵の妾馬はもっと短くて、八五郎と門番の対話の部分で終えたそうです。つまり殿様にさえ会っていないから、侍に召抱えられていないのに、演題は「妾馬」だったようです。
圓生は、大正9(1920)年、二十歳の時に、五代目 橘家圓好を襲名して真打ちになりますが、その頃から妾馬を持ち根多にしたようです。圓生が22歳の時に、師匠の圓蔵が亡くなってしまったので、その後は、初代 三遊亭圓右(1860~1924)のやり方を参考にして、殿様に面会して都々逸を歌うところまで伸ばしたようです。
(http://blogs.yahoo.co.jp/yacup/62221654.htmlより転載)