百川(ももかわ)
●田舎者の百兵衛が、料亭、百川に奉公に上がった当日、羽織りを来たまま客の注文を聞くことになった。「儂、シジンケ(主人家)のカケエニン(抱え人)だ」 と、田舎訛りなので河岸の若い衆は「四神剣の掛合人」と勘違いする。昨年のお祭りで遊ぶ銭が足りなくなり「四神剣」を質に入れたことについて、隣町から掛 合いに来たのだと。その後、言葉の行き違いで、百兵衛がクワイの金団を丸呑みするはめになる。
再び呼ばれて誤解が解けて、常磐津の歌女文字師匠に「若い衆が今朝から四、五人来てる」と伝えるように言われたが、名前が覚えられず「か」が付く有名な人だと覚えた。
長谷川町まで行って「か」の有名な人を探すと鴨池医師だと教えられ「けさがけで四、五人きられた」と伝えたので、大混乱になる。
鴨池医師が来て謎が解け「お前なんか、すっかり抜けている抜け作だ」と怒鳴られると、
「カメモジとカモジ抜けてるのは一字だけ」
(http://mengjian.blog104.fc2.com/blog-entry-132.html より転載)
・・・しかし単に田舎者と江戸つ子の違ひを言葉使ひや所作で表すだけだと、安易な過剰演技になりがちで、この「百川」といふ噺の面白さが伝はりにくい。
私は常々を持つてゐるのだが、さん喬師の高座は常に「落語といふ名の一人芝居」であると思つてゐる。私の中ではさん喬師は一人の噺家といふよりも、一人の俳優と見てゐるのだ。したがつて、「百川」では師が実直な田舎者である百兵衛を現実的に演じること、典型的な江戸つ子である八五郎現実的に演じること、それは師が生まれながら江戸つ子として持つ現実感があるからこそできる。だから両者間の相違、すれ違ひを際立たせることが出来、可笑しみ、面白みを十分に表現することができるのだ。
(http://baikunan2.seesaa.net/article/116960343.htmlより転載)
この噺は、小さん門下の兄弟子である当代一の噺家・柳家小三治の十八番の一つでもある。小三治では昨年独演会で一度、録音で幾度か聴いた噺だが、さん喬で聴くのは初めて。この師匠はどう演じるのだろう、と興味深く聴いた。
小三治の百兵衛は、ただ田舎者なだけでなく、憎めない愛嬌も多分に備えているものの、与太郎の如くちょっと抜けている御仁。言葉と仕草だけで、なんとはなしに太った体の暢気そうな姿が思い浮かぶ。一方、この日に聴いたさん喬師の百兵衛は、素朴でのんびりとした田舎者だけれど、ごく普通の体格で、そんなに人並み外れて頭のネジの締め具合が悪いわけでもなさそうに感じられる。愛嬌よりも、朴訥さがより強く伝わってくる印象になる。
(http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20060219/p1より転載)